鐵心(克直)は、幼少期に両親を亡くし、様々な体験を通して水墨画にたどり着きました。渡辺崋山系南画の師・榛葉淡南に師事し、南画の伝統技法を学びました。師の他界後は、独学で各種伝統技法を研究し、中でも琳派の技法「たらし込み」で今までにない独自の世界を生み出し、その作風は高い評価を得て、全国に1,000人を超える弟子を抱えました。平成20年に65歳の若さで他界しました。
私ははじめから水墨画が大好きで絵を習い出したのではない。多少、他の人と変わったところがあったようで、18歳の時に、ひょんなことから当時、地元に有名な南画家の榛葉淡南先生がいることを知り訪ねた。別に真剣に絵を学びたいという気持ちではなく本当に何気なく、ただ「ぶらっ」と行ったという感じである。私は学生の頃から絵が得意というわけではなく、写生に行けば画用紙の下方5分の1ぐらいのところに山から家から田んぼを描き、残りの5分の4は空を描き、雲をちょこちょこと描いて、よしとしていた。そうすると速く仕上げて後は遊べるからである。そんな要領の良さだけが、取り得であった。それが神様の悪戯か夢遊病者のように南画家の先生の所へ行ってしまったのだ。また、行った日というのは台風の来る前日で、雨こそ降ってはいなかったが風が吹き荒れていた日である。後で先生が話すには「こんな天候の日にわざわざ訪ねてくるとは余程、熱心な若者に違いない」と思ったそうだ。家にあげてもらい世間話から絵の話などをしているうちに、「年を経たらこんなじいさんになれたらいいなぁ」と思うようになった。それには先生と同じことをやるのが一番だ、六十年続ければなんとかなるだろうと思って、はじめた次第である。私の場合、絵は目的ではなく、手段として、先生のようになるには必要、欠くべからざる習い事として受け止めた。それでもその場では先生も自分も絵を教える、絵を習いたいということにはふれなくて、先生が「毎月、日曜日に2回教えている」と言われただけで終わった。次の日曜日から出かけていくと、六、七十歳くらいのじいさんばかりで十八歳の私は場違いな感じがあった。私は皆さんの練習風景を見ていて、「あぁ、こんな具合に習うのか、私もはやく描きたいな」と思いつつ半年も経た頃、先生が「どうだね、習う気になったかねと言われた。私も「もう、教えてもらっているものと思っていました」と言うと、やっと初めてお手本を描いてくれた。はじめのお手本は蘭であった。今でもよく覚えている。次の練習日までに二百枚ぐらい描いて持っていくと、先生があきれて「君、こんなに多く持って来ても見られないから今度から三枚ほど持って来ればよい」とアドバイスしてくれたのを覚えている。先生は七十五歳であった。それからも七年問、南画の先生のところで画の道に励んだが、基本が四君子で水墨の線を練習した。
先生について七年、四君子、山水、花類の基本を一通り教えてもらったところで先生が亡くなられてしまった。その間、先生に教えていただいたことは、今の自分の水墨画の技法の3分の1程度、人生の勉強の100%を学んだつもりだ。
本来、私は百姓の出なので、物事をコツコツやるのが性に合っていて、水墨画に向いているのかも知れないが、水墨画にもいろいろな考え方がある。私の水墨画を始めた動機・考え方などが参考になったらと思っている。
1942年 静岡県に誕生 (本名克直)
1960年 郷土の画人 榛葉淡南に師事
1968年 師没後、渡辺崋山、谷文晁、 与謝無村、曾我爾白、青木木米、
池大雅、浦上玉堂、円山応挙、
俵屋宗達、等の先人の筆法を学ぶ
1972年 東洋水墨美術協会設立
1992年 文部大臣賞受賞
1999年 外務大臣賞受賞
2002年 内閣総理大臣賞受賞
2008年 6月逝去 享年65 協会名誉会長
画系
渡辺崋山→福田半香→木村半雨(西照寺住職)→榛葉淡南(遠州地方の画人)→佐々木鐵心
1890年(明治23年)~1971年(昭和46年) 明治~昭和の画家
掛川(西山口村成滝)に生まれる。本名貫次
西照寺(金谷)の木村半雨に学ぶ
画業だけでなく青年教育に心血を注いだ。
前田靄齋とは親戚になる。
山水・富士を得意とした。
掛川市二の丸美術館 郷土の文人画より
榛原郡金谷町(島田市)の人。弘化元年(1844年)に生まれる。
名は龍湫、半雨と号し、金谷西照寺月塘の子である。童名は梅丸。別に海堂、半雨堂、鉄棒、七十五灘生等の別号がある。半香に学ぶ。
明治43年7月28日68歳で没した。
遠州画人伝より
文化元年(1804)~元治元年(1864)
静岡県磐田市見付(旧遠州見付)に生まれ、名を佶、字を吉人、通称を恭三郎といい、初号を盤湖といった。
半香は10才の頃村松以弘に絵の基礎と写生の習慣を学んだ。21才のとき江戸に出て勾田台領について山水を習うが1年で帰郷、
30才で渡辺崋山に師事し江戸麹町に住んだ。40才の頃崋山が入牢、続いて田原に蟄居すると師の災厄を助ける為奔走したが、却って師を自害に追い込んだ。そのことが半香を絵に打ち込ませ、明清画人の絵を基本から学び独自の画境を得た。
崋山十哲の一人である。
掛川市二の丸美術館 郷土の画人展より